唐芋菓子専門店【フェスティバロ】

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◆フェスティバロとはなんだろう。

フェスティバロ花組2
『フェスティバロ』とは、エスペラント(世界共通語)で、お祭りという意味です。
明るく元気な会社にしよう―という希望によって、この社名になりました。
「南日本経済賞」祝賀会
 2010年8月、フェスティバロは南日本新聞の主催する「南日本経済賞」を受賞しました。
 この祝賀会が鹿児島市内のホテルで開催された際、発起人代表として鹿児島国際大学の瀬地山敏学長は、フェスティバロを次のように紹介してくださいました。

 この会社は、農業という第一次産業と加工業という第二次産業、販売業という第三次産業が、ひとつになっており、社内で地方と都市が還流するシステムが出来上がっている。唐芋という地元の伝統的な主幹作物が、このシステムの総合力によって、現代的で独創的なケーキに生まれ変わっている。そして都会に流通させる場合も、自然のままの安心・安全というテーマを守るために冷凍システムを開発している。都会での評価を勝ちとり、富を地元に還流させ、職場をつくり出している。しかも、そこに若者たちが活躍する文化創造の基盤も形成している。
 世界のグローバル化は、実体をともなわないマネーゲームのパワーで進んでいるが、フェスティバロの存在はローカルから実体のある産業つくり出すという力強い意味をもっている。実際、東アジアなど各国から、ローカル産業の創出をテーマとする視察団が次々とフェスティバロを訪れている。
◆あの世界が揺れていた時代に

 1980年、創業者の郷原茂樹は大隅半島にUターンし、先祖代々の唐芋畑を相続しました。けれど周辺は郊外型の街に変貌しており、畑として生かしにくかったため、「フェスティバロ」という店名のカフェテリアを開業しました。建物もメニューも欧米のリゾート風だったため、たちまち大人気となりました。
 しかし、この時期、世界中が揺れ動いていました。
 ヴェトナム戦争が終り、ドルショック、オイルショックなどが連続してぼっ発し、日本も混沌としていました。
 その後、南アメリカのウルグアイで行われた、新多角的貿易交渉の内容を各国が合意に達したため、日本に各国から安価な農産物が関税なしでなだれ込む時代を迎えました。日本の農業は大きな打撃をうけ、農業を基盤とする地方もまた、深刻な事態に陥りました。
 これを乗り越えようと、日本の各地で村おこし、一村一品、ミニ独立国の建国など、さまざまな運動が澎湃と巻き起こりました。
 大隅半島は全国でも有数の畑作地帯で、その主幹作物は「唐芋」でした。それはデンプンに加工するための原料として活用されており、大隅半島は数多くのデンプン工場が稼動していました。

 ところが、ウルグアイ・ラウンド以来、日本に外国から安価なトウモロコシ・デンプンが入ってくるため、国産の唐芋デンプンは販路を断たれ、大隅半島のデンプン工場はバタバタと倒産してゆきました。
 こうして唐芋そのものも売り先がなくなり、それを栽培するのがむつかしくなりました。そして農家も地域も衰退してゆきました。(ただし、国の補助政策で、からくも存続している例もありますが)−。この補助政策を痛烈に批判する評論家が、都会では大いにもてはやされる時代でもありました。
◆唐芋・新時代の始動

色とりどりの唐芋
 ちょうどこんな時期に、南日本新聞では唐芋を見直す大キャンペーンをはじめました。
 江戸時代から今日まで唐芋がいかに人々の生活を支えてきたか、特に飢饉時に唐芋がどんな貴重であったか、さらに未来にむけたその新しい活用の研究がいかに進んでいるか、そしてまた世界の記者を派遣して各国の唐芋事情をリアルタイムで紹介するなど、その連日の大キャンペーンは一年にも及びました。
≪郷原社長の話し≫
 あのキャンペーンで私は多くを学びました。毎日記事を切りぬいてノートに貼り、教科書のように何度も読み返しました。
 その中にこんな記事がありました。――錦江湾をへだてた薩摩半島の南端・指宿温泉郷にある国立農場試験場で、彩り鮮やかな新しい唐芋が開発され、これを生かした料理やデザートの試作品ができていると―。
 私はさっそくそこに出かけました。そして現物を見て、すっかり感動しました。
 このとき同試験場のリーダー梅村芳樹氏がこう語りました。「私たち研究者の役割はここまで。あとは民間のあなたたちの役割です。つまり、これを活用してほしいのです。」と。
 梅村氏はその新種の唐芋を実験栽培している農家があると教えてくれました。私はそこを訪ねました。富士山によく似た開聞岳のすそ野の村で、先祖代々唐芋を栽培しているという松下豊和という青年が、その人でした。
 彼はこの新しい唐芋で新しい経営を確立したいと語りました。彼はまた唐芋農業の再生のため、地域ぐるみのイベントを開催する行動派であることもわかりました。
 私は松下さんの心意気に打たれ、その唐芋を活用する事業を起こすことを決意しました。そしてカフェテラス「フェスティバロ」を大きく拡張し、レストランをはじめました。メニューとしては、唐芋フルコースを開発しました。もちろん、その素材は松下氏の提供するもので、色彩のゆたかな唐芋フルコースは県外からもお客様を誘致する名物となりました。

 次に転機が訪れたのはフルコースのデザートとして創作した「紅はやとケーキ」が結婚式の引出物として売れ出したため、製菓業としての道が開けたのです。
◆文化による地域の再発見・再創造

 レストランがオープンすると、郷原社長はここを拠点に文化運動をはじめました。「大隅半島カルチャーロビー」をいうサークルを作り、毎月1回、オリジナルの唐芋料理を主に地元の農作物を生かした特別メニューを楽しむ「食文化をつくる会」を開き、それが終るとレストランの2階の多目的ルームに場所を移し、地元で活躍するさまざまな人物を講師に招いて「手づくり市民大学」を開きました。
 誰でも自由に参加できる形式で、来たい人が来たい時だけ来ればよいということで、毎回定員は30人。これがなければ出会うはずもないさまざまな人たちが集って来ました。サラリーマンや経営者、農民など職業もさまざまで、郷土史、絵画、写真、バレエ、音楽、陶芸など趣味もさまざま。マスコミ人も参加していました。
 これらの人々が集ると、いろんなテーマの話し合いが生れ、その都度“言い出しっぺ”がリーダーとなり、本を出版したり、史跡めぐりのバスハイク、リサイクル運動、都会の劇団を招いての公演会、あるいは丘の上のキャンプ村でそれぞれの活動の成果を発表する文化祭を開いたりしました。
「内閣総理大臣賞」の症状や楯など
 この運動が10年続いたところで、読売新聞などの主催する「ふるさとづくり賞」で、内閣総理大臣賞を受賞しました。

 こうした過程で、フェスティバロも生まれ変わりました。もともとが郷原社長の個人経営だったものを、文化運動の仲間が出資しあって会社へと発展させました。そして仲間が会社の幹部になったりしました。
◆『唐芋王国』の歌が湧く

唐芋王国
 「大隅半島カルチャーロビー」が活動をはじめて間もなく、地元の鹿屋青年会議所が、唐芋を再生させるために市民参加の『唐芋王国』の建国運動をはじめました。

 そのとき理事長の田中俊實氏がフェスティバロに来社。郷原社長にこの王国の国歌の制作をたのみました。
1、あおいあおい 空の下
  海と大地の見える丘に
  ふるさとを愛する者の
  歌がわく 歌がわく ヘイ!
  このふるさとが世界の真ん中
  世界でただひとつのふるさと
  我らが作った 我らが作った 我らが作った王国
  からいも王国

2、わかいわかい 心意気
  胸にでっかい夢を抱いて
  あたらしい出会いのよろこび
  ひろげよう ひろげよう ヘイ!
  このふるさとが世界の真ん中
  世界でただひとつのふるさと
  我らが作った 我らが作った 我らが作った王国
  からいも王国

3、明日に明日につづく道
  旗をかがげて進むはてに
  うるわしい豊かなふるさと
  よんでいる よんでいる ヘイ!
  このふるさとが世界の真ん中
  世界でただひとつのふるさと
  我らが作った 我らが作った 我らが作った王国
  からいも王国 からいも王国
 日本の本土最南端のパノラミックな風景を眺望する丘の上に、『唐芋王国』は建国され、大掛かりな式典の会場に、この歌が響きわたりました。また芋植え大会などのイベントも行なわれ、フェスティバロも野外テント群のなかに唐芋ケーキなどの商品を取り揃えて出店しました。
◆東京と隣町のように通い合って

土屋知事と郷原社長
 鹿児島県農政部もまた、この時期に唐芋を再生させるため、「フード・プラザ」というイベントを企画しました。 鹿児島市の臨海埋め立て地に、巨大なテントを張り、全県下の唐芋加工品を一堂に集めて展示即売するというもので、当日は数万人もの観客が押し寄せる大イベントとなりました。
 フェスティバロは東京・浅草の「おいも屋さん」とタイアップし、テレビや雑誌などで大人気のアップルポテトなどを展示販売しました。
 「フード・プラザ」は3年にわたって実施されましたが、秋の一時期に開催するのにとどまらず、これを常設する場所をつくろうという動きが起こりました。そして、鹿児島県農政部の主導で、鹿児島市の一番の繁華街に「さつまいもの館」を建設することになりました。

 この時の鹿児島県知事・土屋佳照氏は鹿屋市の出身で、鹿屋小学校に通っていた小年時代、郷原社長の祖父が学級担任だったとのこと。そんなご縁によって、ある日、知事から郷原社長に電話が入りました。
・・・「実は折り入って相談があるのだが・・・。唐芋の加工品といえば、古くさいものばかりなので、都会の若い女性にも喜ばれる商品をつくってほしいのだよ。」
≪瀬貫ひとみ(フェスティバロ営業部長)の話し≫
新宿での出版祝賀会
 土屋知事がそんな電話をかけてくださった訳は、郷原社長のもう一つの顔を知っていたからでしょう。
 実はその頃、郷原社長は東京の新宿に拠点をおき、小説を創作していました。若いOLをターゲットにしたシティマガジンに短編小説を連載したり、TVのトレンディドラマの走りのような小説を単行本としても次々と上梓していました。これらの本のフェアが新宿の紀伊国屋書店で開かれるなどして、若い女性たちによる読書会も定期的に開かれていました。

 さらに郷原社長は取材活動などで、多くの人たちと親しくなってゆきました。映画、演劇、音楽、デザイナー、カメラマン、建築設計など、いろんな分野の人々との出会いがあり、そして「東京カルチャーロビー」が発足しました。

 東京は東京で独自の運動を試みていましたが、そのうち「大隅半島カルチャーロビー」と連動するシステムが主となり、例えば大隅半島の農村地帯を巡演しながら育てた若い女性メンバーの「村おこしバンド」の、東京新宿のライブハウスでの公演を実行するなど、両方が一体となった文化運動がすすみました。まさに東京と隣町のような感覚で行き通うシステムが生まれたのです。

 土屋知事の「都会の若い女性によろこばれるような唐芋ケーキを」という要請に応えられたのは、まさにこのような文化運動が存在したからでした。
◆スチュワーデスさんのおかげです!

スチュワーデス
 いよいよ「さつまいもの館」がオープンすると、フェスティバロは土屋知事のはからいで、玄関口の前面に店舗を構えることとなりました。
 ここで初めて製菓業としてスタートすることになったわけですが、幸いにも焼菓子の「西洋風唐芋」が大人気となり、さつまいもの館全体の看板商品となりました。
 しかし本社や工場から遠く離れたこの店は、初体験ということもあり、なかなかうまく運営できませんでした。特にこの店はストック場所が狭く、また人員のシフトもカバーできづらい問題がありました。そこで近くに支店を構える必要に迫られ、同じ繁華街の大通りに面した角地を確保しました。
 この単独の直営店舗は、フェスティバロの唐芋ケーキをPRする絶好の拠点となりました。
 九州郵政局の企画する母の日の郵パックにフェスティバロの唐芋ケーキが採用されたのは、この店に郵政局のスタッフが立ち寄ったことによるものでした。そして母の日には、その唐芋ケーキが九州一の売り上げを達成しました。
 次いで郵政局の企画する敬老の日の郵パックでも、また九州一という売上に。・・・・こうして幾年も続いて、唐芋ケーキは郵政局企画の定番商品となりました。

 またこの店で、日本航空のグループ会社JALUXとのつながりも生まれました。
 同社は鹿児島空港ビルの改装工事にともない同ビル内で移転新装オープンするため、新商品をさがしていたとのこと。・・・フェスティバロの唐芋ケーキに白羽の矢がたったのです。
 こうして初めて空港進出となりました。
 ここで、ブームと呼ばれるほどになるまでには、さほど長い日数はかかりませんでした。唐芋レアケーキ「ラブリー」を、スチュワーデスさんたちが並んで買い求めるようになり、それが口コミでいっきに広がったのでした。そして『スチュワーデスのケーキ』というニックネームとともに、「ラブリー」は幅広い固定ファンをもつブランドとなりました。
 やがて羽田空港のJALUX売店での販売がはじまり、ここでも人気を博して、販売開始以来、10年あまり売上トップのロングラーン商品となりました。
 この間に福岡や沖縄などの空港でも独自の唐芋ケーキを販売することになりました。福岡空港の「カプレス」や沖縄空港の「シュリ」などの姉妹品が次々と誕生しました。特に「シュリ」は発売と同時に、大ヒットして沖縄みやげの定番になりました。
◆日本中が私の仕事場

 フェスティバロはデパートの老舗・『大丸』とのパートナーシップにより、全国6店舗で大丸ブランドの唐芋レアケーキ「リンド」を販売しています。
≪黒木めぐみ(フェスティバロ企画課長)の話し≫
 私は大卒1期生としてフェスティバロに入社しました。同期は4人で、初仕事として東京の大丸デパートにでかけました。東京には社長が連れて行ってくださり、ステーキをご馳走になったり、東京湾クルーズを楽しませていただいたのですが…。社長が去ると、私たち4人はまったくの別世界に放り込まれたも同然。一時的に開店したお店に唐芋レアケーキ「ラブリー」を求めて押し寄せるお客様の前で、私たちはただ驚き呆然としてしまったのを覚えています。入荷する唐芋ケーキもあっという間に完売、入荷のトラックをまだかまだかと待ち、こんなにもお買い求めくださるお客様が多いのだと身をもって体験しました。
 その翌年(2002年4月)、大丸東京店にいよいよ本格的なフェスティバロ直営店がオープンすることになり、東京のデザイナー、設計士などとともにお店づくりを行いました。唐芋という素材をいかにおしゃれに表現するかを何度も打ち合わせようやくオープン。するとオープンと同時に、はなまるマーケットなど様々なマスコミに取り上げていただき、お店には連日お客様の列ができるほどの人に。全国の魅力的なスイーツが並ぶ激戦区で、鹿児島・大隅半島の唐芋ケーキが注目され輝く姿は感動的でした。

 その後、東京での人気ぶりが評価され、同年9月には大阪の中心地にある大丸梅田店に出店。ここでも大阪の皆さまに愛され、その噂は北海道まで広がり…翌年3月には札幌店、6月には大阪・心斎橋店、8月には福岡天神店、2006年10月には神戸店…と全国の主要大丸店舗に出店することとなりました。

 鹿児島から全国へ。私は入社以来、唐芋ケーキとともに日本中を駆け回り、今日に至りました。これからも都会にはない独特の魅力を唐芋ケーキのふるさと・鹿児島から全国へお伝えできればと思います。
◆唐芋ワールド・はばたく希望

天文館「唐芋ワールド」外観
 2005年は、唐芋が鹿児島に伝来して300年目にあたる年でした。フェスティバロではこの年を記念して、「唐芋ワールド」を建設しました。
 県内最大の繁華街「天文館大通り」のほぼ真ん中、小さいながらも5階建てのビルで、1階は唐芋ケーキの全商品が勢ぞろいしているフェスティバロ旗艦店、2階は唐芋のデザートなどを開発しつつ販売するカフェテリア、3階は観光案内所、4階は唐芋ミュージアムです。
 とりわけ唐芋のミュージアムは唐芋情報基地をめざしており、毎月1回、市民参加型のセミナー「唐芋ロンド」も開催するなど、幅広い交流の場となっています。
 フェスティバロでは将来、この唐芋ワールドを大きく拡大した施設を、大隅半島に建設する希望をかかげています。
 それにむけて大隅半島の農場には現在150品種の唐芋を栽培する見本農場を造成しています。
 またそこが唐芋をテーマとする国際交流のセンターとなるように、今のうちから積極的に国際交流運動をすすめています。
 これらの推進母体として、NPO法人「唐芋ワールドセンター」や「東アジア唐芋友好協会」を発足させました。
◆「神戸菓舎」がスタート

 2011年4月20日、フェスティバロの「神戸菓舎」が神戸市の神戸ポートアイランドに完成し、おひろめと祝賀会が開かれました。  
  神戸菓舎・外観
神戸菓舎の旗
 神戸菓舎は唐芋を主な素材とする新しいケーキの製造とともに、その販路を関西、関東、さらに東アジアへと拡充するための営業の拠点となります。

 神戸は日本を代表するスイーツの街で、魅力あふれる多彩なケーキ店がいたるところに建ち並び、優れた技術者が層をなしています。
 また、新しいケーキの流行の起きる街であり、さらに国際港ゆえに世界の素材があふれています。
 フェスティバロはこのような神戸に、大隅半島の「みなみ風」農場からゆたかな唐芋の素材を送り込み、今までとはレベルの異なる新しい唐芋ケーキを創作・製造したいと希望しています。
 また神戸菓舎は独自の営業本部を置き、地元神戸や大阪、さらに東京方面にむけて新しい販路の開発をめざしています。とりわけ神戸港からは韓国の釜山や中国の上海などに海上の輸送パイプが確立されていることから、これを生かした海外への販路も開く方向を追求してゆくことをめざしています。
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